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LECTURE195  2018 November

【インタビュー】
国境なき医師団・看護師 白川優子さん

36歳で30年来の夢を実現 努力次第で思いはかなう

白川さん

海外の紛争地などで医療支援を展開する非政府組織(NGO)「国境なき医師団(MSF)」の看護師、白川優子さん。イエメンやシリア、イラクなど激しい紛争が続く地域で医療活動や人道支援に従事してきた。MSFの存在を知ったのは7歳のとき。8年前ようやくその舞台に立つことができた。30年かけて実現した夢の軌跡を聞いた。

7歳のときTVで知る 母の言葉がきっかけに


 ――「国境なき医師団(MSF)」の看護師になるという夢を30年かけて実現しました。よく途中で諦めませんでしたね。
 白川 7歳のときテレビでMSFを知り、素晴らしい団体で自分もいつかはそこで働きたいと思いました。ただ、その気持ちがずっと変わらなかったわけではなく、心と頭の中で曲折はありました。唯一はっきりしていたのは、看護師は天職、自分に与えられた一生の仕事と思えたことです。高校卒業後、定時制看護学校に通いました。昼間、病院で患者さんのトイレを手伝ったり、体を拭いてさしあげたり。患者さんのお世話をするなかで、これが自分の道だと思いました。
 MSFは1999年にノーベル平和賞を受賞しました。やっぱりすごいなと感動しました。看護師になって3年、26歳のときです。看護師としてそろそろ一人前という自負もあり、MSFの募集説明会に臨みますが、あえなく英語の壁に跳ね返されました。地元の英会話学校に通い短期留学もしました。でも日常会話程度ではプロとして働くには不十分。夢はかなわないのかと諦めかけました。
 ――その壁をどうやって乗り越えたのですか。
 白川 きっかけを作ってくれたのは母の言葉でした。私がもがいている姿を見て、「思い切って留学しなさい」と。「あなたの思いや夢は5年たっても変わらない。たぶん30になっても40になっても同じことを言っているよ。だったら思い切って行きなさい」と。20代だった私には40歳になったときの自分など想像すらできませんでした。
 「女だから結婚するのが当たり前って思わなくていい」とも。まさに女性の身として思い悩んでいるときでした。「しっかり準備して足元を固め、自分の人生のピークを40歳あたりに見定めなさい」。母の言葉に励まされ、留学資金をため、オーストラリアに向かったのは30歳目前でしたが、長年の夢の実現に大きな一歩となりました。

充実した日々を楽しむ 徐々に膨らむむなしさ


 ――オーストラリアで7年を過ごします。
 白川 一人前の看護師になるまで日本に帰らないと決め、最短5年を想定しました。メルボルンにある留学生向け語学学校に通い、英語に囲まれた生活で英語力はあっという間に上達しました。翌年大学の看護学部に入学し、あこがれの大学生活。勉強は楽しく、毎日寝る間を惜しんで勉強しました。6人いた留学生で卒業証書を手にしたのは私だけ。晴れてオーストラリアの看護師資格を取得しました。その後2010年に帰国するまでの3年半、メルボルンでも老舗の大病院で勤務しました。
 ――順調にキャリアを積んだわけですね。
 白川 ただ、私のなかではずっとコンプレックスを抱えていました。日本で看護師経験もあるのに英語のハンディで十分に発揮できない悔しさがありました。あるとき病院の上司に「自分に自信が持てない。周りに迷惑をかけている」と泣いて訴えると、「優子が患者に接する態度は他の看護師がまねできないほど優しい。私はそこを見ている」と励ましてくれました。同僚たちも「優子が悩んでいるなんて知らなかった」と、サポートしてくれるようになりました。
 ――コンプレックスは解消できましたか。
 白川 病院で新しいプロジェクトを立ち上げることになったとき、リーダーに指名されました。メンバーの選定から設備の調達まで全てを任され、プロジェクトが無事スタートできたことが自信になりました。周りの心遣いに支えられ、成功体験を積みながら克服していったと思います。
 気づけばオーストラリアでの生活は7年目に。現地で最高峰の病院で働け、収入は安定し、車を買い、海辺のそばにすてきなフラットを借りて毎日楽しく暮らしていました。貯金はたまり友だちもたくさんできました。永住権を取得していたので、オーストラリアで看護師を続ける選択は十分にありました。
 しかし、心のなかでは徐々に虚無感が膨らんでいました。看護師になった原点は、医療が足りていない場所、緊急な医療が必要な場所に医療を届けたいという思いでした。ここは私がいなくても大丈夫。そう気づいて全てを手放し、バックパック一つで帰国しました。

紛争地の人々に希望 シリアで見た人間愛



 ――MSFに2度目の門をたたくわけですね。
 白川 帰国した翌週面接を受けに行きますが、なぜだか受かるのは間違いないと思っていました。実際翌日に派遣登録の許可が下り、7歳のときから30年あこがれていた舞台についに上がることができました。
 MSFでは各自のスキルが生かせる場所に派遣されます。外科に強い私は紛争地に派遣されることが多いです。2010年8月から昨年6月までの8年間にイエメン、シリア、南スーダン、パレスチナ、イラクなど9カ国・地域に17回派遣されました。そこでは誰かの暴力によって血を流し、恐怖におびえ、命を奪われる人たちが大勢いました。誰からも見向きもされず、世界の片隅で絶望にさらされている家族や子供たちの姿がありました。日本では助かる命がここでは無残に消えていきます。
 紛争地では理想の医療を施すことはかないません。限られた環境のなかで最善を尽くすのみです。それでも、苦しんでいる人たちの手を握り、寄り添うことで、現地の人たちの希望につながることも大事なことだと思っています。
 ――現地で印象に残ることは。
 白川 どこの国に行っても困ることが多いのは輸血用の血液の確保です。ところが内戦が続くシリアでは不自由したことがありません。避難民となりその日の食べ物も分からないようなシリア市民が、暑いなか列をなして献血してくれるからです。シリアには4回入りましたが、どこに行っても血液に困ることはありませんでした。人間同士の深い愛を見ました。
 それができる人間がなぜ戦争を起こすのか。MSFはなぜそこに行かなければならないのか。それらを知るために様々な分野の人たちと積極的につながり、刺激を受けるようにしています。
 ――夢の実現をめざす若い人たちに伝えたいことは。
 白川 スーパーウーマンでもない私が36歳で夢をかなえたことをいい例にしてほしい。夢を思い続けていれば、必ず道は開けます。今、目の前に壁があっても諦めることはありません。紛争地には学校が崩壊して勉強したくてもできない子供たち、夢を断たれた若者がたくさんいます。自分の努力次第で思いがかなう可能性があるだけで幸せなことです。
 ――ご自身の次の目標は。
 白川 現在はMSF日本のリクルーターとして採用やプロモーションなどに従事しています。今後も現場の体験を生かして活動していきたいと思います。昨年初めて本を出しました。書くことが大好きなので2冊目、3冊目を出していきたい。小説にも挑戦してみたいですね。

イエメンの子どもたち  
白川さんに会うために学校を抜け出してきたイエメンの子どもたち

講師: 白川優子(しらかわ・ゆうこ)さん
国境なき医師団・看護師 

1973年生まれ。96年坂戸鶴ヶ島医師会立看護専門学校卒。2006年オーストラリアン・カソリック大学看護学部卒。07年ロイヤルメルボルン病院に就職。10年MSFに参加。18年7月著書「紛争地の看護師」(小学館)を出版。

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